ブログはいったん終了です。
盆栽をやってよかったこと
盆栽をやってよかったことは…。
なんでしょうね。笑
私の場合は体調を崩して仕事もできなくなった時に盆栽を手にしました。
何かにすがるような気持ちでモノを買ったのは初めての事でした。そしてその樹を大切にすることは、自分自身を大切にすることにつながると思いました。
目の前のものを大切にすることが自分を大切にすることにつながるというのは大方間違っていなかったようです。
水をくれてやらなければ枯れる樹ですから、毎日面倒を見ます。そんな中で朝起きて水やりをするというルーティンもできました。
体調を崩していた自分が規則正しく生活するようになり、精神的にも安定してきました。
そんな毎日を淡々と過ごしていくうちに過去の失敗悔んだり自己卑下するような性格も薄くなっていきました。
失敗を悔やむことがなくなったのは、剪定のおかげでしょう。
盆栽の剪定はむやみに枝を切ると形を崩すので慎重に行います。一度失敗すると回復するのは一年も二年もかかります。
すぐには取り返せない失敗に対して、「まあいいか」という心境になりました。もっとも失敗しないように考えるクセも付きました。
考えてやってみてそれでもだめならしょうがない。
完璧主義で自分を壊していた私の心が随分と寛容になった気がします。
「そういうこともあるさ」というあっさりとした考え方ですね。
今までは目の前の結果だけを求めていましたが、そんなものはすぐに消えるということに気づかされました。
逆にゆっくり、じっくり作り上げたものは簡単に崩れないんですね。
以前に比べて周りに流されることも少なくなりました。
盆栽をやる前の私は生きる土台がなかった気がします。
盆栽が生きる土台となる軸を与えてくれたような気がします。
盆栽をやってよかったこと。
それは自分の生きる上での軸ができ始めたということでしょうか。
毎日の水やりや剪定を通して土台を大きく太くしたいですね。
ちょっととりとめのない文になってしまいましたが、
これからも盆栽ライフを続けますよ。
盆栽は想像の遊び
日本人はイメージすることが得意なのだろうか。
小さな物を何かに見立てて表現することが得意なのだろう。
ちいさな盆栽を前にして何かを考える。
植えてある樹、作り手の意図、鉢合わせ…。
モミジとセキショウ。
何を意図して作られたのか。
実は意図など無いかもしれない。
それでも見る側は何かを受け取る。
里山のモミジだろうか。
夏が終わり、涼しくなる季節感を表したものだろうか。
見る側が何を考えようと自由である。
見入る時間は、自由にイメージする時間。
自然を表現するのなら、庭に樹を植えて自然に任せて伸ばせばよい。
しかし日本人その逆をしてきた。
わざわざ鉢を小さくして樹も小さく作る。
自然を表現するために凝縮していくという矛盾。
盆栽は想像力を豊かにする遊びなのだ。
「待つ」を教えられる
仕事を他人に教えるのが苦手である。
年下の新人君に教えても一向に覚えてくれない。
「なぜ出来ないんだ!」と心で思う。
しかし、これは考え方がおかしい。
自分が年月をかけて覚えたものを高卒の相手がすぐに出来るわけがない。
教えるという行為には、「待つ」という過程が必要らしい。
盆栽が教えてくれたことである。
ちいさな盆栽といえど、今日作って明日完成するわけではない。
今日の剪定の結果は半年後や一年後に表れる。
盆栽はやればやるほど「待つ」を教えられる。
成果が出るにはある程度時間が必要なのだ。
職場の新人君よ、待ってるぞ…。
ソメイヨシノは全部「自分」
日本のサクラと言えばソメイヨシノ。
大島桜と江戸彼岸桜を掛け合わせたものと言われている。
ところでこのソメイヨシノは実生(種から育てること)ができない。
挿し木も難しく、繁殖はほぼ全て接ぎ木によるもの。
接ぎ木で増えていったということは、元をたどれば一本の親木にたどり着く。その一本から枝を接いで全国に植樹されたということである。
ということは全国にあるソメイヨシノはぜ~んぶ「自分」なのだ。兄弟ではなく、クローンということになる。
日本の植木職人は凄いですね。
さて我が家もようやく開花宣言です。
こちらは「旭山桜」。
これも接ぎ木で作られており、元をたどれば一本の親木。
接いでくれた植木職人に感謝して自宅でお花見です。